題名:真珠湾攻撃総隊長
の回想 淵田 美津雄 自叙伝
著者:中田 整一
出版社:講談社
読みやすさ:★★★★★

印象度 :★★★★★

総合 :★★★★★

ビジネス本でないけれど、おもしろいです。
淵田 美津雄の息子さんのところに残っていた
本人が記した自叙伝と解説の構成ですが、
文書も読みやすいすいですし、
やっぱり内容がスゴイ!!!!!!!
簡単に経歴を・・・・
奈良県北葛城郡磐城村(現・葛城市)出身。旧制奈良県立畝傍中学校
を経て大正13年(1924年)7月、海軍兵学校卒業(52期)。
真珠湾攻撃における第1次攻撃隊(及び隷下の水平爆撃隊)を指揮し、「ト・ト・ト」(全軍突撃せよ)及び「トラトラトラ」(奇襲ニ成功セリ)が淵田機から打電されたことで知られる。当時、海軍中佐。
開戦前、第三航空戦隊参謀から2度目の空母・赤城飛行隊長へと就任した。異例の「降格人事」であった。同期で親友の、事実上の作戦立案者であった源田実たっての希望であったと云われる。
ミッドウェー海戦時にはミッドウェーに向かう洋上で虫垂炎となりミッドウェー空襲隊の指揮を執る事が出来ず、空母赤城艦上に留まった。赤城からの脱出時に両足を骨折。内地送還後は横須賀航空隊教官、海軍大学校兼陸軍大学校教官を経て軍令部出仕、第一航空艦隊参謀、連合艦隊・南方軍参謀を務めた。終戦時は海軍大佐。
敗戦後は第二復員省(元・海軍省)史実調査部、GHQ歴史科嘱託として戦中資料の整理研究を行った。淵田の南雲忠一、山本五十六への評価は辛辣である。
昭和24年(1949年)、キリスト教に入信し以降昭和41年(1966年)に引退するまで日米各地で伝道活動に従事した。アメリカでは「真珠湾攻撃の英雄」として迎えられることが多かったという。昭和42年(1967年)、郷里に隠棲。
昭和51年(1976年)5月30日、糖尿病の合併症により74歳で死去。
とある経歴に加えて、広島の原爆直後に、調査を行ったり、
ミズリーの上で、無条件降伏の調印に立ち会ったりと、
大東亜戦争のポイントに、必ず出現するという
希有な存在です。
また、戦後はGHQ支配下で、民主化がすすみ、軍人に対する世間の目が
180度 反転したために、農業で生活を支えた後、
渋谷の駅前で、聖書を渡されていたのをきっかけに、キリスト教に
目覚めて、人と人が憎しみ合う戦争を愚かさを伝えるために
アメリカに渡った・・・・・・・・・・・・・
![Lt.Com_Mitsuo_Fuchida[1].jpg](https://3book.up.seesaa.net/image/Lt-thumbnail2.Com_Mitsuo_Fuchida5B15D.jpg)
あと興味深い内容としては、淵田 美津雄の
山本 五十六に対する評価。また、ミッドーウェー海戦に対する
考え方など、単なるクリスチャン的な美しい話のみでなく
戦争当時の淵田の荒々しい気質が伝わってくる内容でした。
次回案内予定新刊
ごめんなさい、未定です。
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